生物学は、古典的な物理モデルを生体系に適用することで成功してきました。しかし、古典物理学では上手に説明できない生命現象が数多く存在します。例えば、光合成における葉緑体のエネルギー輸送の効率はなぜ高いのか?犬の嗅覚はなぜ敏感なのか?渡り鳥はなぜ微弱な地磁気を感じることができるのか?脳は膨大な量の情報をどのように処理しているのか?などの重要な疑問があります。これらの生命現象は、コヒーレンス、トンネル効果、エンタングルメントなどの量子効果によって大きく特徴づけられている可能性があることが、最近の研究で示唆されています。量子生物学は、まさにこのような疑問を量子力学の観点から解明し、量子コヒーレンスと生体のマクロなダイナミクスの関係を研究することで、生体の量子力学と古典力学の境界領域であるメゾスコピックな世界に光を当てる研究分野であります。量子生物学は、エルヴィン・シュレーディンガーが名著「生命とは何か」を発表して以来、80年近くの歴史がありますが、科学的に検証可能な概念として本格的に登場したのは、ごく最近のことです。その背景には、時間分解分光法、1分子イメージング、X線レーザーなどの近年のテクノロジーの進歩により、量子生物現象を研究できる環境が整ってきたことがあります。
合田研究室は、その概念をさらに一歩進めたいと考えています。量子力学の知見に基づいて量子技術が発展してきたように、量子生物学の知見にインスパイアされた革新的な量子技術である量子生物模倣技術が実現できるはずであると考えます。この仮説に基づき、そのような量子生物学的な技術を工学的に実現し、新しい研究分野「量子生体工学」を開拓することを目指しています。例えば、光合成の量子効果を模倣した高効率エネルギー輸送機能を持つソーラーセル、磁気受容や嗅覚など動物の驚くべき感覚を模倣したガスセンサー、夜行性動物の視覚を模倣した赤外線カメラなどの開発が期待されます。量子生物学から量子生体工学へのパラダイムシフトは、産業、エネルギー、医療に多大な影響を与えることが期待されています。
参考文献
- N. Lambert, Y. Chen, Y. Cheng, C. Li, G. Chen, and F. Nori, "Quantum biology", Nature Physics 9, 10 (2013)
- J. Cao, R. J. Cogdell, D. F. Coker, H. Duan, .., S. Westenhoff, and D. Zigmantas, "Quantum biology revisited", Science Advances 6, eaaz4888 (2020)
- K. Goda, "Quantum light and quantum life: understanding quantum-biological phenomena by quantum technology", Optronics 8, 54 (2020)